ー大垣まつりの見所である「軕」の発祥を教えてください。
大垣まつりに初めて軕が登場したのは、1648年に大垣八幡神社が戸田氏鉄公によって再建された時だと言われています。この頃は現在のような豪華なものではなく、急ごしらえの「車渡り物」と呼ばれていました。例えば、車渡り物のひとつである「石曳山」は大垣城の拡張工事のとき、石垣の石を運んだ石曳車をそのまま曳いたようです。
軕蔵(鯰軕)
ー軕には三両軕と呼ばれるものと、10の町内それぞれの軕があるそうですが、どのような違いがあるのでしょうか?
大垣まつりの軕には三両軕と本軕があります。三両軕とは、「神楽軕」「大黒軕」「恵比須軕」をいいます。これは大垣藩主から下賜された軕です。三両軕は小さく素朴なつくりで、横幕は赤、黄、緑の三色幕が引かれています。水引には戸田家の九曜の紋が入っています。町衆の衣装は、お揃いの浴衣に角帯、雪駄(せった)に白足袋、肩には菅笠(すげかさ)で粋な姿です。十カ町が神楽組、大黒組、恵比須組に分かれて一年毎に当番制で曳いて祭りの先触れや元八幡への奉芸を行います。
本軕は各町内の軕で、屋形を持ち、三両軕より背が高く一回り大きいのです。鯰軕や菅原軕などのからくり軕と日本舞踊を出し物とする踊り軕などがあります。本軕の付き人は紋付袴に白足袋、下駄姿、手には扇子と小物袋を持っています。
藩主下賜の軕と町衆の軕が併存するのは全国にあまり例がないということが、国の重要無形民俗文化財の指定理由にあげられています。
ー軕には色々な掛芸があるとお聞きしましたが、特徴的なものについて教えてください。
三両軕のうちのひとつ、神楽軕の掛芸は「湯立て神事」といって、発祥の地は長野県の伊那谷遠山村です。ここでは毎年11月にそれぞれの神社で「湯立神事」が行われて、これを「霜月祭り」と呼んでいます。この霜月祭りには全国から神様が集まり遠山村の湧水で沸かした白湯を飲んで、穢れ(けがれ)を取るといいます。アニメの「千と千尋の神隠し」はオクサレ様が遠山村の湯に浸かって穢れを吐き出してきれいになりますね。これは霜月祭りがモデルだと聞いてます。大垣の神楽軕も操り人形の山伏が熊笹でしぶきを四方に飛ばして、不幸や病魔を追い払い大垣の市内を廻っているのです。
また、鯰軕は揖斐川流域特有の掛芸だといわれています。揖斐川流域に鯰は水神様だという鯰信仰があります。茨城県の鹿島市には「地震鯰」伝承があって、鯰は地震を起こし世直しするといわれています。「鯰押さえ」はこの二つの相容れない伝承を表し、笑いとしたものです。このからくりは国宝の「瓢鮎図(ひょうねんず)」がモデルとなっています。まさに禅問答です。
ーなるほど。おもしろいですね! 軕の見せ方は時代によって変化しているのですか?
そうですね。昔は夜宮の軕の提灯の灯りはロウソクでした。軕を回すと提灯が燃えるので「軕回し」はできなかったのです。今はロウソクから電球になって火災の心配もなくなりました。たしか、平成14年だったと思いますが、手古衆が「軕回し」がしたいと言い出したとき、前例がないのでだめだと一旦は断ったのですが懇願されて仕方なくやることにしたのです。あれから15年過ぎた今、その付けがきて、車輪は大破するし、屋形の柱は捻れて折れるし、大変な損害です。怪我人が出てもいけないので止めたいのですが、今では「軕回し」が昔からあったと思っている人も多く、お客さんにも人気があるので困ったものです。
ー浅野さんは相生軕の再建の実行委員長も務められたとお伺いしました。苦労話を聞かせてください。
大垣まつりの軕は、昭和20年の戦災で7両が焼失しています。本町の相生軕もその一両です。相生軕は平成8年に51年ぶりに白木の軕として再建されています。その後平成18年に「手長足長」などの彫刻を施し、平成21年から漆塗り、金具の取り付けなどを行い、平成24年に完成しています。苦労といえば、再建資金の工面も大変でしたが、住民に軕の再建の必要性を説くのが大変でした。また、戦前につくられた相生軕のお囃子や漆、彫刻、金具を知る人はいません。手がかりはたったの一枚の小さなモノクロの写真。資料集めにはとても困りました。この間は家業も手につかず、軕に没頭していました。でも、完成した今はみんなが喜んでくれているので、楽しい思い出になっています。
ーこうして、370年以上もの間大垣まつりが続いているのは市民の方々の尽力があってこそなのですね。祭りの裏話をお伺いして、ますます当日が楽しみになりました。浅野さん、貴重なお話をありがとうございました!